あなた以外は風景になる

その人以外見えなくなった時のことを書き留めたい

【余韻】を噛み締める~4ヶ月振りに推しのライブへ行った話

このブログが世に公開されているということは、恐らくあの場所で新型コロナ肺炎のクラスタは発生しなかったということでしょう。非常に安堵している自分が浮かぶ。同時に、好きな人を見に行きその場所で生まれる音楽を楽しみたいだけなのに、何故それが許されないんだろうと非常にやりきれない気持ちに捕らわれる。

7月も終わりに近づいたある日、とあるジャズライブを見にジャズバーへ足を運んだ。4ヶ月振りの生ライブ。日常のひとコマだった「ライブへ行く」という行為が久し振りすぎて前日から謎に緊張した。日本でも有数の、いつもなら人が溢れるその街も雨も手伝ってか人通りは少ない。雑居ビルの小さなエレベーターでバーへ入ると、そこはもう結構な人数の人が開演を待ちわびていた。「結構な」と書いてしまったけれど、実際はそうでもない。店内を歩くのに特に支障はないし、キャパシティを考えれば半分以下での人数である。ただこのくらいの密集度でも「密だ」と感じるように変えられてしまった自分の肌感覚に驚く。人はたかだか数ヶ月でこんなにたやすく感覚が変容するのか。

奥の方へ進むと顔見知りの人たちが数名いたので声をかけ、再会と無事を喜び合う。本名すら定かではないがよく顔を合わせる人たち…だった、数ヶ月前までは。そう、自分が職場以外の人と顔を合わせるのは主にライブハウスという場所だった。待ち合わせをしなくてもライブがあれば自動的に集まる。それが無いだけで、もう永遠に逢わないことも有り得るのだなと改めて思う。

 
楽しみだった、久し振りの生ライブはあっという間に終わってしまった。始まる前は「どんな風になるんだろう。感激して泣いちゃったりするかな~」などとのんきに思ったりしていたがそんなことは微塵も無く、ただ楽しく幸せなうちにライブは終幕した。普通のライブハウスよりもアットホームで、そもそも入場してすぐにライブをする本人と顔を合わせ、何気ないいつもの会話を交わしたおかげか、本当にいつもの楽しいだけのライブだった。ただ暫くライブに行かないうちに「ライブ脳とライブ筋」は著しく衰えたようで、たかが2時間半くらい立っていただけでライブが終わった瞬間から足腰はしんどいし、何をやったかも何を言ったかもほぼ覚えていない。ただ歌う本人が心底嬉しそうに、今世界で一番俺が幸せ~という顔をして大好きなメンバーの名前を何度も紹介し、愛してやまないジャズナンバーを唄っていたことしか思い出せない。なんて幸せな記憶。
 
翌日は仕事がたまたま休みだったのだが、本当に休みでよかった。私は心身共に疲れきりひたすらに横たわって過ごした。フワフワしてるが、静かな熱に満ちていた。これが本当の【余韻】なのでは?と、妙にクリアに納得した。
 
正直どこか気が進まず無観客の配信ライブはあまり見ていないが、どんなに大好きなバンドでも「物足りない」ものだと気がついた。それはライブの出来不出来ではない。確かに、ごく小数であれ観客を目の前にしてライブをしたら、演者の気持ちは盛り上がるだろうし、ステージが帯びる熱量も格段に変化するだろう。でも自分が感じたのはそこではない。完全に観客側の気持ちの問題だ。見られてよかったな!という気持ちは湧いても、それは《体験》にはならない。今まで日常的に得ていた「ライブを見る」快感は、ライブを見たという《記憶》に付随する細かな気持ちや風景があってこそなのだ。記憶が《体験》になるためにはむしろステージ以外の様々なノイズが必要で、でもその余計な情報こそがライブを見たという事実をくっきりと縁取る。

「ライブへ行く」は数時間ライブハウスにいるだけの時間ではなかった。朝、ライブへ行くことを含めて身支度をすること、チケットを確認しながらライブハウスへ向かい、ドキドキしながら開演を待ち、ライブを楽しみ、知り合いがいれば会話を交わし、帰宅する電車の中で気だるい足腰を持て余しながら今日の光景を思い出し、寝る直前まで満たされた気持ちを何度も反芻することまで全部含めてが「ライブへ行く」を指していたのだった。もっといえば、チケットを手にした瞬間からもうライブ体験は始まっているのだろう。家で見る配信ライブがどんなに優れていても、画面を消した瞬間に余韻は確実に遠ざかる。家は自分にとって生活の場所。日常からひと時抜け出して特別な場所に行きたいと思う自分の希望とは重ならない。
 
しかし、これからはきっとこういう気持ちと折り合いをつけていかなければならないのだろう。元の世界には戻らない。戻るとしてもきっと想像よりも長い時間がかかる。逆に当たり前のように配信の環境が整うようになれば、なかなか事情が許さない人であってもライブを視聴することが出来るようになるだろうし、新しい価値新しい体験を生み出すことにも繋がる。むしろ今までの方が不均衡であり、これから均されていくのだとも考えることが出来る。
 
環境や考え方の変化は歳をとるごとになかなか難しくなるけれど、自分の愛した趣味においてはそうも言っていられなくなってしまったなと思う。柔軟に視点を変え、姿勢を変えなければいけないのは、ステージの上も下も同じだ。ステージに立つ人がステージを諦めない限り、きっと自分も愛情を注いでいくだろう。どこに愛情を注ぎ、何を求めていくのか。その取捨選択の基準は変われども、そこに賭ける想いが変わらない限り。